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第七章 遮断――凍りついた心

مؤلف: 海野雫
last update تاريخ النشر: 2025-12-24 19:00:55

 あの夜から、ちょうど二週間が過ぎていた。雨の中で立ち尽くし、声も出せずに泣いたあの金曜日から、季節が少しだけ進んだように感じられた。空気の冷たさが増し、朝晩には吐く息が白くなる日も出てきた。けれど、颯の心の中には、あの夜の冷たい雨がまだ降り続けているようだった。

 今日もまた金曜日だった。本来なら春海と食事に行く約束があった日だ。先々週はキャンセルされ、先週は颯のほうから体調不良を理由に断り、そしてようやく今日という日が来た。朝からそのことばかりが頭の片隅にあり、颯は自分の心を観察し続けていた。まるでバグの原因を探るプログラマーのように、どこが壊れているのか、どこを修正すれば正常に動くようになるのかを、何度も何度も点検していた。

 答えは出なかった。壊れているのは、システムの一部などではなかった。根本から、すべてが狂っていた。恋という名のプログラムが暴走し、理性という名のファイアウォールを突き破り、感情という名のデータがあふれ出して止まらない。そんな状態が、もう二週間も続いている。

 それでも颯は出社した。いつもと同じ時間に目覚まし時計

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  • リターン・ラブ--(return love;)   エピローグ 現在の夜――止めないでいいバグ

     十二月。年の瀬が近づく頃、颯は深夜のオフィスにいた。 蛍光灯が白い光を落とす、静まり返ったフロア。キーボードを叩く音だけが、規則正しく響いている。モニターの光が顔を照らし、画面にはコードが整然と並んでいた。 隣には、春海がいる。 同じように画面に向かい、同じように静かに作業をしている。ふたりの間に言葉はなく、ただ時間だけが穏やかに流れていた。 この光景を、颯は知っている。 五年前、大学の研究室で見た光景と同じだった。蛍光灯の白い光、静寂、キーボードの音。春海の横顔を盗み見るように眺めていた、あの夜と同じ光景だった。 けれど、すべてが違っていた。 あの頃の颯は、春海の隣にいることさえ緊張していた。話しかける勇気もなく、ただ横顔を見つめることしかできなかった。「好きです」というたった一言が、どうしても言えなかった。 今は違う。 隣にいることが、自然だった。言葉がなくても、不安にならない。同じ空間で同じ時間を過ごしているだけで、胸の奥が静かに満たされていく。 春海が、ふとキーボードから手を離した。「……そろそろ、終わりにするか」 低い声が、静寂を破った。時計を見ると、午前一時を過ぎていた。「はい」 颯は頷いて、ファイルを保存した。今日の作業は、ここまででいい。明日また続きをすればいい。そう思えることが、幸せだった。 春海が立ち上がり、窓際に向かった。ブラインドの隙間から、夜の街を見下ろしている。その背中を見ながら、颯も椅子から立ち上がった。「春海」 名前を呼ぶと、春海が振り返った。蛍光灯の光を背に受けて、その表情は少し影になっている。けれど、目だけはやわらかく光っていた。「なんだ」「……昔のこと、思い出してました」 颯は春海の隣に立った。同じように窓の外を見つめる。街の灯りが、まばらに瞬いていた。「大学の研究室で、こうやって夜を過ごしたこと。あの時は、何も言えなかった」

  • リターン・ラブ--(return love;)   10-3

     春海の部屋は、颯の部屋とは対照的だった。 整然と片付けられたリビング。余計なものが一切ないシンプルな空間。本棚には技術書が整然と並び、デスクの上にはパソコンだけが置かれている。春海らしい、理性的で無駄のない部屋だった。「散らかってなくて、すごいですね」 颯がいうと、春海は肩をすくめた。「物が少ないだけだ」「俺の部屋、見せられないなあ……」「知ってる。見た」 そうだった。土曜日の夜、春海は颯の部屋に来たのだ。散らかった部屋を見られてしまったのだ。「……恥ずかしい」「別に。お前らしいと思った」 その言葉に、颯は顔が熱くなった。 春海がキッチンに向かい、コーヒーを淹れ始めた。その背中を見ながら、颯はソファに座った。 不思議な気分だった。 春海の部屋にいる。恋人として、訪れている。一週間前までは考えられなかったことだ。「コーヒーでいいか」「はい」 春海がカップをふたつ持って戻ってきた。颯の隣に座り、カップを手渡す。「ありがとうございます」 コーヒーを一口飲む。苦味と香りが、口の中に広がる。「……疲れただろう」 春海がいった。「この一週間、大変だった」「春海の方が、大変だったでしょう」「俺は慣れてる」 そういいながら、春海はコーヒーを啜った。その横顔を、颯は見つめていた。 疲れている、と思った。 春海は、疲れているのだ。プロジェクトのリーダーとして誰よりも重圧を背負ってきた。それを表に出さないだけで、本当は限界に近かったのかもしれない。「春海」「なんだ」「お疲れさま」 その言葉に、春海の表情が緩んだ。「……ああ」「今日は、ゆっくり休んでください」 颯はカップをテーブルに置き、春海の肩に手を伸ばした。そっと触れる。コートを脱いだ春海の肩は、思ったより細

  • リターン・ラブ--(return love;)   10-2

     水曜日の夜。 プロジェクトの最終調整は、佳境を迎えていた。 オフィスには、まだ多くのメンバーが残っていた。金曜日のプレゼンテーションに向けて、最後の仕上げを行っている。キーボードを叩く音、電話の声、時折響く笑い声。緊張感の中にも、どこか高揚した空気が漂っていた。 颯も、自分の担当箇所の最終チェックを行っていた。UIの動作確認、デザインの微調整、バグがないかの検証。ひとつひとつ、丁寧に確認していく。「高橋、ちょっといいか」 春海の声が、背後から聞こえた。振り返ると、春海が立っていた。「はい」「会議室で、最終確認をしたい。来てくれ」 それだけいって、春海は先に歩き出した。颯は慌てて立ち上がり、後を追った。 会議室に入ると、春海はドアを閉めた。ブラインドは下りていて、外からは中が見えない。「……座れ」 春海がいった。颯はいわれるままに、椅子に座った。 春海も向かいに座る。ふたりきりの会議室。蛍光灯の白い光が、ふたりを照らしている。「最終確認って……」「仕事の話じゃない」 春海の声が、低くなった。 颯の心臓が、跳ねた。「金曜日のプレゼンが終わったら、俺の部屋に来い」 春海の目が、真っすぐに颯を見ていた。いつもの冷静な目。けれど、その奥に、熱が宿っている。「打ち上げは……」「途中で抜ける。お前も、適当なところで抜けろ」 強引ないい方だった。けれど、嫌ではなかった。むしろ、うれしかった。春海が、自分とふたりきりの時間を望んでくれている。仕事の後、真っ先に自分に会いたいと思ってくれている。「……はい」 颯は頷いた。声が、少し震えていた。「それだけだ。仕事に戻れ」 春海が立ち上がった。颯も立ち上がる。 ドアに向かう春海の背中を見ながら、颯は思った。 この人は、不器用だ。 愛情表現が下手で、感情を言葉にするのが苦手で、いつも回りくどい言

  • リターン・ラブ--(return love;)   第十章 帰る場所――愛を恐れない人へ

     月曜日の朝。颯はいつもより早く目を覚ました。 カーテンの隙間から差し込む光が、部屋をやわらかく満たしている。十一月の朝は冷え込むようになっていたが、布団の中にはまだ、夜の温もりが残っていた。 隣を見る。春海はもういなかった。 枕には、かすかな体温の名残。シーツには、ふたり分の眠りの痕跡。颯はその枕に顔を埋めた。春海の匂いがする。清潔で、少しだけ甘い、この人だけの匂い。 昨日の夜、春海は自分の部屋に帰っていった。月曜日からは仕事があるから、と。その言葉に寂しさを感じる一方で、同時に安心もしていた。この人は、ちゃんと現実を見ている。ふわふわした気持ちだけで突っ走らない。それが春海らしかった。 土曜日の夜から日曜日の朝にかけて、ふたりで過ごした時間を思い出す。春海の腕の中で眠った夜。目が覚めた時、隣にこの人がいた幸せ。あの時間は、夢ではなく現実だったのだ。 スマートフォンを確認すると、メッセージが届いていた。『おはよう。今日から、また仕事だな』 たったそれだけの言葉。けれど、颯の胸は温かくなった。春海が、自分にメッセージを送ってくれている。朝起きて、最初に自分のことを考えてくれている。それだけで、今日一日を頑張れる気がした。『おはようございます。今日も、よろしくお願いします』 返信を打って、送信する。「よろしくお願いします」なんて、まるで仕事のメールみたいだと思った。けれど、まだ距離感が掴めていなかった。恋人としてどう接すればいいのか、わからなかった。 ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。澄んだ青空が広がっていた。雲ひとつない、晴れ渡った空。土曜日の夜に降っていた雨が嘘のようだった。 世界が、新しく見える。 同じ部屋、同じ景色。なのに、すべてが違って見える。窓から見える街並みも、道を行き交う人々も、どこか輝いて見えた。春海と結ばれたことで、世界の色が変わったのだ。自分の心が、変わったからだ。 シャワーを浴び、身支度を整える。鏡に映る自分の顔は、いつもと同じはずなのに、どこか違って見えた。目が、少しだけ明るい。口角が、自然と上がっている。

  • リターン・ラブ--(return love;)   9-3

     世界が、白く弾けた。 意識が、一瞬だけ途切れた。体の芯から、何かがあふれ出していく。快感が雷のように体を突き抜ける。声が出た。どんな声だったのか、自分でも分からない。ただ、何かを叫んでいた。春海の名前だったのかもしれない。あるいは、意味のない声だったのかもしれない。 春海も、同じ瞬間に果てた。颯の名前を呼びながら、体を震わせていた。その声が、颯の耳に残る。かすれた、切実な声。この人も、自分と同じ場所にいる。同じ瞬間を、共有している。 五年分の想いが、すべて解放されていく。 我慢していた感情があふれ出していく。抑え込んでいた欲求が解き放たれていく。体の奥から、何かが噴き出すようにあふれていく。それは涙だったのかもしれないし、声だったのかもしれない。あるいは、もっと別の何かだったのかもしれない。 春海の体が、颯の上に崩れ落ちた。重い。けれど、その重さが心地よかった。生きている証拠。この人がここにいる証拠。春海の鼓動が、自分の鼓動と重なっている。二つの心臓が、同じリズムで脈打っている。速くて、激しくて、やがてゆっくりと落ち着いていく。 雨音だけが、静かに響いていた。 二人とも、しばらく動けなかった。息を整えることすら難しかった。ただ、重なり合ったまま、時間が過ぎていくのを感じていた。* どれくらいの時間、そうしていたのか分からない。 春海が体を起こしたのは、呼吸が落ち着いてからだった。ゆっくりと体を離し、颯の隣に横たわる。天井を見つめている。その横顔を、颯はぼんやりと眺めていた。 汗で濡れた髪、閉じられた瞼、穏やかな表情。普段の春海からは想像できないほど無防備な姿だった。理性の鎧を脱ぎ捨てた、素の春海。その姿がたまらなく愛おしかった。この人のこういう姿を見られるのは自分だけなのだと思うと、胸が熱くなった。「……後悔、してないか」 春海が、目を閉じたまま言った。その声には、かすかな不安が混じっていた。「してないです」 颯は即答した。迷う必要もなかった。「これが俺の……本当の気持ちです」 春海が目を開

  • リターン・ラブ--(return love;)   9-2

     シャツが脱がされた。 颯の上半身が露わになる。恥ずかしさに、思わず腕で体を隠そうとした。見られるのが恥ずかしい。こんな自分を見せるのが恥ずかしい。けれど、春海がその腕を優しく押さえた。「隠すな」 低い声。けれど、命令ではなかった。お願いに近い響き。「見せてくれ」 颯の顔が熱くなった。こんな言葉をいわれるなんて思わなかった。恥ずかしい。恥ずかしいのに、嬉しい。この人に見られたいと思う自分がいる。この人に、すべてを知ってほしいと思う自分がいる。 腕の力を抜いた。春海の目が、颯の体を見つめる。視線が肌の上をなぞっていくのが分かった。鎖骨。胸。お腹。見られている。この人に見られている。その事実だけで、体が熱くなっていく。 春海の手が、颯の胸に触れた。その瞬間、息が止まった。「っ……」 声にならない声が漏れた。触れられた場所から、電流が走るような感覚。全身が過敏になっている。春海の手のひらがゆっくりと胸を撫でていく。その動きが、たまらなく気持ちよかった。こんな感覚、初めてだった。「声……我慢しなくていい」 春海の声が、耳元で囁いた。その息が、首筋にかかる。ぞくりと背筋が震えた。「でも……」「聞きたい」 その言葉に、理性が溶けていく気がした。我慢しなくていい。声を出していい。この人の前では、何も隠さなくていい。そういわれている気がした。 春海の手が、脇腹を撫でた。くすぐったいような、甘いような感覚。思わず身をよじる。「あ……っ」 声が出た。自分の声とは思えないほど、甘い声。恥ずかしかったが、春海が嬉しそうに目を細めるのを見て、恥ずかしさより喜びが勝った。この人が喜んでくれるなら、恥ずかしさなんてどうでもよかった。 春海もシャツを脱いだ。鍛えられた体が、薄暗い中でも見て取れた。広い肩、厚い胸板、腹筋の線。颯は息を呑んだ。「綺麗……」 思わず呟いた言葉に、春海が驚いたように目を見開いた。「男に綺麗というのか」「だって、綺麗だから

  • リターン・ラブ--(return love;)   5-2

     昼休み、颯は一人でコンビニに行った。 いつもは同僚と一緒に昼食を取るのだが、今日は一人になりたかった。頭の中を整理したかったのだ。午前中の出来事が、まだ胸の中で反響している。 コンビニでサンドイッチとお茶を買い、近くの公園のベンチに座った。平日の昼間、公園には人が少なかった。遠くで子供が遊んでいる声が聞こえる。風が木の葉を揺らしている。 サンドイッチをかじりながら、颯は空を見上げた。 雲はまだ空を覆っていたが、ところどころに切れ間ができていた。その切れ間から、青空が覗いている。光の筋が雲の隙間から差し込んで、地面にまだらな

  • リターン・ラブ--(return love;)   4-2

     あの夜から、春海の態度が変わった。 以前は二人で研究室に残ることもあったのに、颯が残ろうとすると「今日は早く帰れ」と追い返されるようになった。他の学生には何もいわないのに、颯にだけ、そういった。 会話も必要最低限になった。研究の指導はしてくれるが、それ以外の話はしなくなった。雑談も、コーヒーを淹れてくれることも、なくなった。 颯が話しかけても、短い言葉で返されるだけだった。目も合わせてくれなくなった。 颯は自分が拒絶されたのだと思った。 あの夜、手を重ねたこと。傍にいたいといったこと。それが春海を不快にさせ

  • リターン・ラブ--(return love;)   第四章 回想――大学時代の真実

     あれから三日が経った。 颯は自分のデスクで、ぼんやりとモニターを見つめていた。画面には開発中のコードが映し出されているが、指はキーボードの上で止まったままだ。文字列が並んでいるはずの画面が、どこか遠くに感じられる。焦点が合わない。まるで自分だけが別の時間軸に取り残されているような感覚だった。 あの夜のことが、頭から離れない。 ――それ以上でも、それ以下でもない。 春海の声が、耳の奥でまだ響いている。冷たくて、硬くて、まるで氷の壁のような声だった。颯の言葉を、感情を、すべて跳ね返すような。あの瞬間、自分の心が凍りついていくの

  • リターン・ラブ--(return love;)   3-4

     自宅に着いたのは、深夜一時を過ぎた頃だった。 部屋に入ってすぐシャワーを浴びた。熱い湯を頭から浴びながら、颯はぼんやりと考えていた。 これからどうすればいいのだろう。 春海への感情は、消えない。拒絶されても、消えない。むしろ、より強くなっている気さえする。 でも、彼に拒絶された。「それ以上でも、それ以下でもない」と、はっきりいわれた。 諦めるべきなのだろう。仕事に集中して、プライベートの感情は封印して、上司と部下としてだけ接していく。それが、正しいことなのだろう。 でも、できるだろうか。

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